インダストリアル加藤君

2023年7月29日土曜日

t f B! P L

「7…6…5…」

わたしは心の中でカウントダウンを始める。これまでの朝と同じようにいつも通りにカウントダウンを始める。


これは加藤君が席に着いてから私にあいさつをしてくるまでの時間。加藤君のあいさつが特段嬉しかったり、ああ今日もやるぞ、とやる気がもらえたりといったことはなかったが、なにやら一つ私の中では朝の儀式、というべきか、一種のルーティンになっていた。

それくらいいつも正確に、7秒後にあいさつをしてくれるのが加藤君なのだ。


「4…3…2…」


「課長、お話が…」


わたしは面食らった。

なんたって。ルーティンが。もはや私の朝のルーティンになっていた加藤君のあいさつが1秒も早く、というよりそもそもあいさつでもない。なにかしらの語りかけを含蓄した言葉の羅列。


もう一度言うが私は面食らった。

「おはようございます」といつものように、席についてから7秒後に、別に覇気があるでもなく、通る声というわけでもなく、どちらかというとぼそぼそ小さな、それこそ本日初めて声を出しました、みたいな声帯の初々しさを感じられるような挨拶を期待していたからだ。


わたしはこうみえても、すくなくともアライグマよりは心動じない精神力をしていると自負している。自負しているし、夜寝る前に自分にそう言い聞かせている。

だからすくなくともアライグマがこの加藤君のある種奇抜な行いを見せられた時よりは、平静をとりつくろえたとは思うが、それでも私はすくなからず狼狽した。


「な、なんだい?加藤君」


わたしの声は震えてしまっていただろうか。

わからない。なんたってこんな突発的なことがこんな普通の日に、それこそ365日の中のもっとも平均的で平凡になるはずだった一日にこんな問いかけが発生したのだから。


「課長…、僕もうだめかもしれません」


ああ…。わかった。これは。あれだ。

この後きっと加藤君は背広の胸ポケットから茶色の封筒を出して、その封筒には3文字の漢字がならんでいて。


でもどうして。

加藤君は仕事もそれなりにできて、わたしも加藤君につらく当たったり怒ったりといったことはない。しかし私がいくらそう思っていたとしても、部下からすれば不満に思う事があったのかもしれない。

ああ、失態だ。わたしは、甘えていたのだろうか。


いや、今何を考えても仕方ない。とりあえず朗報としては、いきなり「辞めます」ではなかったことだろう。「だめかもしれません」ならまだ説得の余地がある。

わたしが説得する必要がそもそもあるのかと思うし、今日日終身雇用などもう時代遅れで、自身のステップアップのために積極的に転職をするのが風潮になりつつある。

が、それでもやはり一応気心の知れた仕事仲間が離脱するのは心象的に抵抗したいところがある。


「な、なにがかな?」


わたしは震える右手でコーヒーを手に取りつつ、身構える。3文字の封筒が加藤君の胸元からすっと取り出される、すぐ未来の光景を。


「僕気づいてしまったんです」

「…?」


違った…?思ってたのと違った…?私はさらに狼狽する。アライグマより精神力のある私でもここまで狼狽するのだからアライグマならもうだいぶ前から失神してるだろう。


「僕ランニングをしているんですが…」

「う、うん」


話の流れがまるで見えない。とりあえず加藤君がランニングしている話で私はここまで狼狽している。というかそのガリガリ度合いでランニングしているというのもそれなりに驚いてしまった。


「その時、おならをこいたら少し速くなった気がしたんです」

「お、おう」


おなら?退職届?同じ文字数だな、うん。

あれ?なんかそういう。新しいタイプの退職届のやつ?これ。昨今LINEで退職の意志を上司に伝える子も多いと聞くし、そういう新しい、なんかそういうWEB3.0的な退職届のやつかな。


「だから思うんです」

「うん」


もう腹をくくろう。というより話の流れが異次元過ぎて思考が追い付かない。うん、くらいしか口から出力できない。


「人間ってなんで口が前についてるんだろうって」

「え?」

「だってそうでしょう、おならの空気で前に進めるなら、口は後ろについているべきでしょう。というよりなぜ栄養を摂取する口で呼吸まで担う必要があるのでしょうか。いっそのことお尻の穴から呼吸をすればいいのでは、と。なぜここまで哺乳類の体は非効率的なのか、と」


なるほど。

確かに。わたしは急に天啓を与えられた聖職者のような、音で表すなら「ぱぁー」という音が聞こえたような気がした。


「確かに」

「そうですよね。現に魚などはエラが推進方向に順接されていて、吸い込んだ水がそのまま推進力に逆行せずに排出されるようになっています。なぜ人間は空気を吸う穴を前に、吐き出す穴を後ろに作れなかったのか。ありえない。考えれば考えるほど非効率が過ぎる」


ぐうの音も出ない。たぶん私は口をあんぐりと空けていただろう。そしていくぶん安堵もしていただろう。

ああ、加藤君は退職しないんだ。


「そうして私は思い至ったんです。」

「うんうん」


わたしは少し上機嫌だった。


「後ろに呼吸をしたら速くなるのでは、と」

「というと?まさか後ろを向いて走るわけにもいかないだろう」

「はい、ですのでこれを使うんです」


加藤君が出したのはシュノーケルだった。


「シュノーケル?」

「そうです、シュノーケル。これをつけてランニングをします。通常シュノーケルは上を向けますが、そこは少し改造して真後ろを向くようにしてあります」

「なるほど」

「つまりですね、これをつけて呼吸をすれば、ランニング中おならを毎秒しているのと同じ加速効果が得られるはずなんです」

「なるほど」


なるほど、しか言うことがない。ああ、私はバカになってしまったのだろうか。それとも加藤君がバカなのだろうか。

それかあるいは両方が。


「あ、課長。」

「ん?」

「おはようございます」

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