ウマ娘、普通の人はどういう感想なのか

2023年10月14日土曜日

ウマ娘

t f B! P L

ふと、それはまるでテントウムシが他のテントウムシの星の数を何かの拍子に認識するかのように、そんな自然である意味不自然な思い付きが、脳裏によぎることがある。


例えばそれはスパゲッティを茹でるときのゆで汁で洗濯をしたらどうなるんだろう、といった心底バカらしいものもあれば、ガムを噛んでいるときなんかでは、そう、眠たくなるとガムを捨てるのもおっくうだから、ガム(ここではこの一般的なガムをガムAと呼ぶ)を溶かすガム(ガムBとする)を売ればいいのに。そうすればガムAとガムBがそれぞれボトルで購入されるから2倍の売り上げになるだろうに、と天啓にもにたそれを得ることがある。


そうして今日またそれがよぎった。


ウマ娘は一般人からすればいったいどういうアニメだと思われているんだろう、という視点の功というのか、自分とは違った視点でウマ娘のアニメを見てみたくなった。


というのも僕の中にはすでにウマ娘のアニメ、アプリそのすべてにおいて、少し気持ち悪いかもしれないけれど、ストーリーは極上、という認識が出来上がってしまっているためだ。

しかしこれはあくまで個人の感想であり、ウマ娘、という”ウマ”とはつくものの、しかしその実、見た目や精神は完全に人間の”娘”である存在が競馬場で走らされ、見世物にされ、観覧に詰めかけたおじさんたちに黄色い声援を送られている、そのようなアニメの一般的な感想とはかけ離れているとも思う。


ウマ娘を離れて見てみる

スパゲッティのゆで汁で洗濯機を回し、ガムを溶かすチョコをガムの横に設置するも、ガム噛んでるのにチョコで締めくくっては元も子もない、そんな思いをしたぼくとしてはウマ娘についてもすぐに実践してみた。


ウマ娘を離れて見てみることにした。


念のため断っておくが、ウマ娘を離れて見てみる、というのは物理的な距離、よくテレビのオープニングで表示される「離れて見ましょう」の意味ではない。


ここでは心理的な距離感の話をしている点にはご留意願いたい。


したがって先ほどの文章に説明を付け加えると、ウマ娘というコンテンツに対し、心理的に距離を取って離れて見てみることにした、という事になる。


結果として、ウマ娘を離れて見てみると、有象無象のアニメと作画、ストーリー、音楽、キャラともに大差ないという印象を受けた。


ウマ娘以外でこういうタイプのアニメ(例えば響けユーフォニアムなどがあげられると思う)を見ないので有象無象のアニメと大差ない、という感想自体に疑義が生まれるけれど、例を挙げるとすれば、Free!やバクテン!、リーマンズクラブといった近代アニメ史で非常に多く分布している女性向けアニメと比較すれば、という事になる。


なぜなのか女性向けのああいったアニメはすごく見やすい。見ていて毒がないし、男キャラが完全に架空の男を描いているので、現実世界の男同士のやりとりとまったく異なっており、完全にファンタジーとして見れる。

色恋のないファンタジーとして見れるのが大きい。本来冒険もののアニメに求めているものがそこにあるような気さえする。


話がずれた。

ウマ娘を離れて見てみると、それはほぼFree!だった、という印象だった。


史実を絡めていることのアドバンテージ

作画にしても、Free!やバクテン!などのスポーツものアニメの方が凝っている印象で、さらになぜかああいった作品は作中BGMが素晴らしい。

女性は耳から恋をする、という言葉があるがそういったことも重視され、作中BGMのクオリティを上げているのかもしれない。また、他の研究でいうならば、女性の方が色を見分ける力が高いという事も知られている。

ああいった女性向け作品の作画、そして色の使い方というのか、が妙に透明感を意識しているのもそういった女性と男性で見た場合の五感の繊細さの差異に起因しているのかもしれない。


また話が脱線した。

結局のところ、やはりウマ娘にハマった理由、そして超がつくほど近眼チックにしかウマ娘を評価できなくなってしまった原因、それはウマ娘が史実に基づいているという点だと改めて気づかされた。


史実に基づいている、というだけでそのストーリーを見たときの厚みが変わってくる。映画にしても戦争を取り扱った映画のラスト、主人公が死んでしまうなどの描写が終わり(そして歴史ものの映画は悲劇的な結末になる場合が非常に多い)、一時暗転、その後、白字でたんたんとその後の史実が表示されるだけで、なにか心にずしんと来るものがある。

これはきっと、今見た映像、そのすべてが、脚色されているとはいえ、実際に数十年前に起こったことなのだ、と急に突きつけられるからだろうと思う。


こんなことがあったんだ、こんな人がいたんだ、歴史の教科書の年表で、まるでなんでもない既成事実として、ただ1行でまとめられているあの表記の裏にこんなにもたくさんの人の喜怒哀楽と人生とが絡み合っていたのだ。と。


個人的にウマ娘以外で競馬を知らない。

けれどそれでもサイレンススズカが大けやきを超える瞬間、ケイエスミラクルの言動の一つ一つ、ライスシャワーの表情、そういったものが一つずつ琴線に触れる。


これは実際に起こったことで、これからアニメの中で起こる事。

そしてそれによってその馬は死んでしまったり、走れなくなってしまったり、悲劇的な結末を迎えてしまう。故人のホームビデオを見ている感覚に近い。

心の奥が、少し、「すぅ」っと潮が引くような、色がなくなるような、そんな感覚になる。


Free!でキャラが怪我をしてもそこまで心配になったり、心を締め付けられたりしない。それはこれがフィクションだと知っているから。だからけがをしたからといって胸を締め付けられたり、心配になったり、心を動かされることが少ない。

このケガ自体がストーリーの起承転結に必要なケガあり、それは推理小説の拳銃と同じ類の物なのだと視聴者側は認識している。


ウマ娘が史実をふまえてストーリーを構成している、というのはやはり昨今のアニメを見渡してみてもかなり希少で、作画や音楽などは有象無象だとしてもその一点でオリジナリティが担保されているのだろうと思う。


史実を基にしている、といいながらオリジナリティというのはなんだか不思議な気もするけれど。


まとめ

ウマ娘に対して、普通の人がどういう印象を持つのか離れてみてみた。


一見するとFree!などと同じ分野にカテゴライズされるアニメ、でかつ、作画、音楽、キャラともに特筆することもない普通のアニメ、さらにいうなら女の子が競馬場のコースをおじさんに見られながら走らされる、という事に対してその発想が心底気持ち悪い、拒否反応を禁じえない人も少なからずいるだろう。


僕自身、ウマ娘が仮に史実を基にしていなければここまでハマっていなかったろうと思う。もっというならば拒否反応を示したまま今現在まで至っている可能性すらある。


きちんと史実の競馬結果を踏まえながらそれをストーリーに落とし込む、その丁寧なストーリー構成。

すでに決まっているレース結果を、各キャラの感情の起伏をうまく描くことで手に汗握る、魅せるレースに変えている点、そういった丁寧な、一般的なアニメでは行われることのない作り手の努力こそがウマ娘の魅力なのだと思う。


だからもったいないな、と思う。

一般の人はそんな風に思う事もなく、今日も何の気なしにスパゲッティのゆで汁で洗濯機をまわしてるわけで。

もう少しそういう史実とのかかわりをCMなどでアピールしてもいいと思う。


あと悪い。

文章のクオリティが維持できなかった。冒頭の文学チックなノリを続けたかったのだけれど、ノリの制御ができなかった。

一つ言えることは、こんな短い文章で破綻しているぼくではウマ娘のストーリーを作ることは天地がひっくり返っても無理だという事だ。

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