又吉直樹さんの「火花」の感想と評価を。
”純文学”しすぎてる気がする
火花、お笑い芸人のピース又吉さんが芥川賞を受賞したことで、普段本を読まない人もたくさん読んだはずの作品。なんなら同時受賞の人も当時テレビでまくってたくらい話題だったなー。
で今更だけど又吉さんの火花、読んでみた。
ものすごい純文学純文学してて普通にすごいなーと思った。芸人とか関係なくすごい純文学してた。
ただこの本の中の主人公、徳永がどこまで又吉さん自身の性格をまねて作られたキャラなのかわからないけど、著者自身もこれくらい世間の目を気にしてしまうのなら、この本は本当に書きたいこと書けたのかなーと思ってしまう。
それくらい物語の構成とか終わり方とかが、純文学に収めようとして書かれたような感じがしちゃう。
それこそこの火花の中で神谷に面白くない、と言われる徳永達の漫才みたいに好き勝手できてないんじゃないか、って。
神谷に「お前は物語をきれいにしすぎる」って言われるけど、同じようにこの火花自体が繊細過ぎるんじゃないか、って。
それ自体もあえて作者が意図してるならすごいけど、どうなんだろう。
文体、作者のメンタル、登場人物のセリフ、登場人物のメンタル、4つの影響を考えてこの構成なら天才だと思う。
つまり自分の文体の批判を自分の作品の登場人物に言わせてるわけだからなー。
どっちなんだろう。
又吉さんが自分でも、自分が繊細だと自覚してるから文体はそうならないように書いたけれど、それでも隠しきれておらず人が読むときれいごとに感じてしまう
のか、
上で書いたようにそのきれいごと感もあえて出してるもので、それをあえて神谷に突っ込ませることで作品の広がり、というかユーモアの広がりを意図して作りこんでるのか。
ま、いいや。
で、これ神谷って千鳥の大吾だよな。
本としてすごい完成されてたとは思うけど、面白くはなかったんで多分今後又吉さんの本は読まないと思う。
面白くないというか登場人物が繊細過ぎて受け付けなかった。粗っぽさがない。きれいごとだけで、純文学という筋をなぞってるだけな気がする。ものすごい模範的純文学というか。だから面白くなかった。国語の教科書みたいな味気無さ。
特徴的だったのは神谷と別れた女性が数年後、公園で子供を連れているのを見て「絶対に美しい人生だと思う」と書かれているシーン。
人に興味ない俺からすると、誰が幸せだろうが不幸せだろうがどうでもいいだろうに。そいつの人生が絶対に美しかったとしてお前や俺に何の関係があるんだろう。って白けてしまう。
絶対に美しくても、もしかしたら美しくても、だいたい汚くても、糞みたいに汚れてても、どうでもいい。って感じちゃう。もう関係ない人間だからなー。
ていうか別れることになった女性に対して、はたから見て「ああ、幸せそうでよかった。いいやきっと幸せに違いない」って思うことがそもそもおこがましいと思う。神かなんかか、と思ってしまう。どの位置から何を語ってるんっていう。
繊細な人って、自分の影響範囲を過大評価しすぎだと思う。そんなにお前のこと誰も意識してないよって。
繊細な人は自分が好きすぎるんだろう。だからそんな尊い自分が影響を与える世界への打撃の大きさを考えてしまって、行動できない。ていう潜在的ナルシスト。ていうか根本的ナルシストと言ってもいい。だから伊坂幸太郎や村上春樹嫌いなんだよね。それに近い。又吉さんは。
正直俺からすると、誰が死のうが生きようがどうでもいい。でも自分が死ぬのは自分という観測者がいなくなるから嫌。別に俺という人間の性格や人間性が消え去っても、観測者であれるならそれでいいと思ってる。目が使えてたら中身全部いらないって感じだな。
そういう人を人と思ってない人間からすると、クソ甘っちょろい小説だな、と感じると思う。
人なんて言葉操るようになった猿と同じだから。そいつらがやれ人権とか面倒なこと言いだして、がんじがらめになってるのがこの世界だからな、と思ってる俺みたいな人には合わない。繊細過ぎる。
てな具合に人を選ぶ作品だと思う。
…純文学はだいたいそうだよな。作者の精神がもろにでるから、それに共感できるかどうかで好みが別れちゃうのが純文学だもんなー。
あ、あと気になったのは描写の粒度というかそういうのが序盤と最後の方でけっこう違うのは気になった。序盤はマジで難しい言葉使おう!で書かれてる感がある。
そんなことよりアニメの「おーい!とんぼ」めちゃくちゃ面白い。
結局あーだこーだ悩んでるキャラよりも、素直で笑顔で素朴な描写が一番心にダイレクトに響くんだよな。何番煎じでも関係なく。
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