リバース1999、「朔日手記」の感想と考察

2024年5月31日金曜日

リバース1999

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めっちゃよかった…。

リバース1999の朔日手記。


めちゃめちゃ純文学してる。ソシャゲのストーリーなんか、これが。

ただその分賛否別れるシナリオだろうなー。人によってはウルル運動会よりショボい、と感じることもあると思う。

個人的には、


  • モルパンク>>>>>>>朔日手記=レイクミドロ>>>リメカップ=ウルル


という感じでリバース1999のこれまでのイベストで2番目くらいに面白かった。モルパンクが圧倒的なのはもうしょうがない。あんなストーリー、ホント何遍も言ってるけど本来なら金払わないと読めないレベルだったし。


ここではそんな好み別れそうなリバース1999のイベスト「朔日手記」の感想と考察を書く。


感想

全体としてみてものすごい好きな物語だった。

小説であったとしてもそれなりに褒めてるだろうなー。ラストを全体的に夢オチ的に描いてるのもかなりツボ。

何を感じるかどう結末をつけるかは読んでいるあなたがどうぞご自由に行ってください、というタイプの小説が好きだから余計かもしれない。


ただ細かい点はけっこう気になる所も多くて、例えば、


  1. 前半の小隊の話に8話も割く必要全くない
  2. ちーにゃんの母親や導師の話をもっと掘り下げてほしい
  3. ちーにゃんの行いがバレるところの演出がとにかく稚拙


とかが気になった。

「①前半の小隊の話に8話も割く必要全くない」に関しては、せっかくいい感じのアニメなのに謎に水着回をはさんだせいで最終回意味わからんくらいはしょりまくるアニメに感覚が近い。あんなの1話でまとめられる。

いきなり川の水を必死に飲んでるシーンから始め、でいったん数刻前に場面を戻し、小隊のいざこざをちょいと書き、んで現時刻に戻し、それからいきなり葛天に襲わせればいい。


「②ちーにゃんの母親や導師の話をもっと掘り下げてほしい」も、母親の犯した禁忌の内容とかが分からないままだし、導師がどういう人間なのかもわからないまま。というか主人公なんだよね、ちーにゃん。ちーにゃんのテキスト量少なすぎない?エニセイ、ベスミエルより少ないのはもちろん、ヒゲばっか撫でてるおじさんのテキスト量の方が多い始末。

ヒゲばっか撫でてるおじさんの声優もびっくりしただろう。「え、このちょい役の俺が主役の人より文字数多いんですか!?」てなもんだろう。


そこがわかればもっと最後の橋を飛び越えるちーにゃんのシーンの純文学的な昇華場面が輝いたと思う。


「③ちーにゃんの行いがバレるところの演出がとにかく稚拙」はマジで笑うくらいショボかった。ただそれはそれだけちーにゃんがそれを本当に人のためだと思ってたからで、それは最後までこの朔日手記のイベストを読めば納得はできる。

ただ最初にそのシーンに触れると「はい?」なんの動機もなくシンプルにウマに変えてたやん、で肩透かしを食らうというか。ちょっともったいない部分。そのせいでラストバトルが非常に白けてしまう。


考察

リバース1999の朔日手記、この物語は夢オチ感を出しつつも、祥瑞にあこがれた女の子と祥瑞だった世捨て人を描いた純文学に仕上がってる。

人生においての我慢と抑圧、という非常に純文学が描きたがるテーマを扱っているのも純文学的に仕上がっていると感じてしまう理由だと思う。


お許は、ちーにゃんを置いて、きっと何不自由なく暮らせるであろう酒屋の店主という身分を捨てて自分の夢を叶えようとする。

エニセイ、ベスミエルは、東方に伝わるアルカナム「心願成就」でそれぞれ何かの、現状満たされていない思いを満たしたいと考え旅に出る。

葛天は、抑圧していることにすら気づいていなかった自らの心に向き合う。


そういった主要登場キャラの「抑圧」に軸を置いた心理が最後のちーにゃんが橋を飛ぶところで昇華されるのが本当に純文学的構成になってる。お許にしてもその橋がその思いを語るシーンになっているのも意図してやっているんだろう。

で、結果何も好転していないのも純文学っぽい。それでも世界はただ回っていくだけなんだよ、みたいな。

そこに千と千尋みたいな夢オチ感を入れてくるからちょっとややこしくなってるけど、軸はそんな感じだと思う。


一つ用語を整理したい。

祥瑞というのはこの物語上だとヒーローみたいなもの。人々から英雄と言われるような人。


そして女の子の方、つまりちーにゃんは母親が祥瑞だったけれど堕落し、そして姿を消してしまい、その後世話してくれた導師に「祥瑞になれ、ならば母親の事もわかるだろう」と言われ、右も左もわからぬまま街の中にいる、取るに足らない捨て子として祥瑞を目指すことになる。

世捨て人の方、つまり葛天はかつて祥瑞として街を作った一族の末裔。しかしその街では今やかつての同族、祥瑞だった一族の事など忘れ去り、全く別の神を信奉している始末。だから街を傍観していた。しかし朔日祭に行われる灯篭流しを初め、やはり人間に対しての庇護心は依然として彼の中にあり…。


結局、そういう登場人物の心の解決に軸を置いてるから、物語として煮えきらない感じになってしまってるんだと思う。

登場人物たちの心はこの出来事の前後でそれなりにきれいに清算されてるけど、全体としてみたらそこまでいい終わり方じゃなくね?みたいな。


あと、エニセイ、ベスミエルが何を求めてはるばる東方まで「心願成就」の謎を探りに来たのかはもう少し説明してほしかったところ。考察しようにもヒントがなさ過ぎて何もわからない。エニセイの方はそのうち自分の望む場所に行けるという事、ベスミエルの方はすでにその選択は終わったから気にしてもしょうがないという事が分かっただけ。根本の願いは読み手側としてはなにもわからない作りになってる。


ちーにゃんが使役してた土塊の小隊も気になる。どうも導師が関係してるみたいだけど、現時点だとなにも情報がなさ過ぎて考察できない。


あとたぶん橋を飛び越えることがトリガーで「心願成就」のアルカナムが発動するの?で、そのなんでも願いが叶うという「心願成就」のおかげで鹿蜀になった街の人々やエニセイは元に戻れたの?という部分が一番気になる所と思う。


ただ、これはもうどっちでもいいと思う。

作者としても、ちーにゃんがあの橋を飛ぶシーンでいろんなものを昇華させたかっただけで、それ以上深い考えはないと思う。

それこそ一度かけることができたアルカナムは絶対に解くことができる、という話の通り、ちーにゃんが橋を飛んだその瞬間にそのリミッターを外せただけかもしれないし、そうじゃなく、普通にはるか昔の誰かが仕掛けた秘術「心願成就」があのタイミングで解放条件を満たして発動しただけかもしれない。

でもそれはこの物語でそこまで大きな部分じゃないんだと思う。大事なのは橋を飛び越える、という物理的な事象が、登場人物それぞれの心理的な事象とリンクしている、もっとわかりやすく書くなら自らの壁や悩みを乗り越える一つのたとえになってるだけで、それが描けてたらそれだけでよかったんだと思う。


川端康成の小説で最後花火が上がるのと同じ理屈。


あと、ラストのシーン、ヴェルティがソネットの事を寝ぼけたからといって忘れるシーンがある。

これも第2の夢オチ感を醸し出すシーンで、ベスミエルが実は存在しない人物で、そもそも今回の朔日手記の物語自体ヴェルティの夢だった、ベスミエルは夢の中でのヴェルティだった、と見ることもできるようになってる。


ラジオの読み上げでエニセイという言葉を聞いていたから夢にその名の登場人物が出てきただけかと思いきや、ラスト、そこにエニセイが実際に面会に来ることになる、という、とても洒落た作りだなと思う。


まとめ

今回はリバース1999の朔日手記の感想と考察を書いた。

いやー、今回はウルルと違って翻訳完ぺきだったし、物語としても面白くてものすごいよかったなー!

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